e-春風塾

つばっしー先生

プロフィール

沢津橋紀洋

つばっしー先生

読書好きの父に連れられて、幼少期の趣味はもっぱら読書。小学校時代のお気に入りは『15少年漂流記』と『ソロモン王の洞窟』。

大学は、出来たばかりの早稲田大学文化構想学部に入学。人文・社会学を幅広く探究する。文化構想学部が性に合っていて、自然に実力をつけ、東京大学文学部に編入学。中学時代の将来の夢が「中学校の先生」だったため、自分の将来の仕事を教育関係に定め、学部を卒業後、東京大学教育学研究科に進学。日本を代表する著名な教授陣の教えを受け、教育学修士号を獲得。修士在学中から自身で米国高校留学を支援する私塾を立ち上げ。芸能人や経営者の子息を多数指導。2021年春より、縁あって東京から糸島に移住。

ーまず改めて、つばしさんが糸島に移住して来られた経緯を教えてください。

前職の会社の社長が福岡在住で、いい場所だぞと聞きまして(笑)。一回見に来た時に、率直に土地柄を気に入ったのと、 インスピレーション的にも、東京を出る時だと感じたので、思い切って拠点をこちらに移しました。コロナがひどくて、東京にいる人同士でもzoomで話すことが多かったので、東京にいる意味を見いだせなかった、というのもあります。

あとは私的な話で恐縮ですが、僕のこの名字は、鹿児島の名字なんです(沢津橋-さわつばし)。僕自身は東京生まれ育ちですが、鹿児島に祖父母の家があり、帰省のたびに九州各地に色々旅行もして、九州の大地に癒やされていたので、「いつかは九州に」という思いは潜在的にずっと持っていました。今回、九州大からお呼びがかかったことを通して、「江戸(笑)で自分が受けてきた高尚な教育を、故郷に還元する時じゃ!」と感じたんです(笑)

ー東京でどういう活動をされてきたのか、教えていただけますか?

僕はある意味では今ドキの「スラッシュキャリア」で、いくつか仕事を掛け持ちしていました。

*スラッシュキャリア=複数の仕事や活動を掛け持ちして、多様な分野やスキルにまたがるキャリアを築くこと。 SNSアカウントなどのプロフィール紹介にて、肩書きやスキルを記号のスラッシュ「/」で区切って表現するところに由来する。

軸は3つで、「教育」と「アカデミック」と「起業」です。東大の教育学修士時代から、自分で教育で塾を作っていました。米国の高校に留学するための学習の指導をしていました。高校生の米国留学って、生徒にとってはメンタル的に大変なんです。やっぱりホームシックとかになりますから。ホームシックになっても簡単に帰れる状況じゃないですしね。受け入れる高校側もそのことが分かっていて、だからすごく「意思」を問うんですよね。志望理由を相当細かく詰められて、確認されます。留学意思が明確で、米国で学ぶ動機が強ければ強いほど、留学中の困難に負けはしない、と見ているんです。書類で送る願書エッセイも相当のクオリティと細かさが求められますし、最終面接でもかなり意思を細かく把握されます。僕がやっていたことは、「米国で学んでみたい!」というシンプルな憧れをベースに受験に挑む中学生の生徒さんを、そのシンプルな憧れを確たる明確な目標に変換することです。なぜ留学したいのか、留学して何を学び取りたいのか、将来どのような仕事をしていくのか。それらを固めていく教材も磨き込み、作り込んでいました。良い講座が作れていたと思います。塾業界で長く活動していたので、業界紙の『私塾界』で連載を持たないかというお声かけも修士時代にいただき、連載を持たせてもらったこともあります。教育諸科学が明らかにした知見を、学習塾業界に提供していた形ですね。

例:もし科学の視点が塾であったなら

一方で、修士課程卒業後は、上記の塾を週末に運営しながら、平日は普通に会社員になりました。日本と東南アジアにまたがって、ベンチャー起業に投資をする会社で、起業家向けの教育カリキュラムの構築と実装に従事しました。教育に高度な専門性があるということで、白羽の矢を立ててもらったんですね。教育諸科学を活用しながら、社会人の方がビジネスをしながらどう人間として成長し、スキルも成長させていくかの体系を作っていったんです。学者の方たちに連絡し、共同プロジェクトも複数立ち上げて進めていました。「起業家」ってある意味では、「人として最高」の存在の一つのシンボルだと思いますが、起業家になるための開発の過程をプロセス化しようとしていたとも言えます。

前職時代の研究HP

この投資会社では、毎月シンガポールにも出張させてもらって、グローバルにビジネスがどう構築されていくかをつぶさに見ながら、ベンチャービジネスとして勝ち上がるための高い要求スタンダードに到達するために人間としてどう成長していくかを悩む同寮や投資先の起業家の方に向き合ってきました。僕自身もとても磨かれる期間でした。

ただコロナになって、出張が全部なくなって、激務だった時間も少し余裕が出来て、自分の将来を考えるようになりました。コロナ直前、本当に過労で倒れそうになっていて、平日は会社員、週末に塾運営の二足のわらじはちょっともう難しそうだ、となっていたんです。コロナでいったん余裕が出来たものの、このままだと収束後に過労の二の舞になる。成人の成長に向き合うのと、若年層の成長に向き合う。2つに1つだとしたら、自分はどちらに懸けたいんだろう、と深く悩みました。そこで初心を思い出して、「そうだ、自分は中学校の先生になりたいんだった」と。両方面白いけれど、2つに1つなら若年層の教育をやりたいと腹を決めて、昨年末に投資会社の方は退社しました。そのあと心身の体調を整える期間を少し持っていたら、春先に福岡に来る話が出てきた、という感じです。

ーすんなり移住を決められたのはなぜですか?

「いつかは九州で」と思っていたので、九州のシンボルでもある福岡で、しかも注目の地、糸島で教育活動をすることは、僕にとっては念願とも言えます。モチベーション高いですよ。何が出来るんだろうって。

ー糸島の地でやってみたい教育活動は何ですか?

自分としては色々やりたいことはあるものの、独りよがりになるのが一番怖いので。お父さんお母さんお子さんと向き合いながら、一緒に作りあげていきたいなってイメージが強いです。僕のスキルセットとしては学習理論ももちろん強いのですが、それだけではなく、学部時代の専門が社会学だったことを活かし、社会の変化を先読みした上で、教育の内容を作り込めることが僕の強みです。単なるプラクティショナーではないので。本当に、社会はどんどん変わっていきます。僕は大学入学直後にすぐ塾講師としてアルバイトを始めて、ずっと私教育に関わってきました。私教育とは、学校という公教育ではない、民間が提供する教育のことです。公教育はそう簡単に変わらない、というか変わらないものを提供して、社会の基準を作るのが公教育の役割です。一方私教育は柔軟に、社会の変化を反映し、あるいは先取りしてすぐ新しく出来るのが強みであり、社会における役割です。今後も僕は私教育において、社会の変化を先取りし、結果として牽引できる教育を作り続けたい。まずは糸島の保護者さんとたくさん話してみて、一緒に作り上げていけたらと思っています

ーつばっしー先生、ありがとうございました!